風変わりな人々


山とは必ずしも関係ない、ぼやきのコーナー。世の中の風変わりな人々に出会ったときにここで憂さ晴らしだぁー!

1.ジムでの出来事その1
2.ジムでの出来事その2
3.みくりが池温泉にて
4.パソコンショップでの出来事
5.コンビニの駐車場で
6.ジムでの出来事その3
7.仕事場の出来事
8.スイミングクラブ事件1
9.F 市の交差点
10.スイミングクラブ事件2


  Close    Home


1.ジムでの出来事

 私の通っているスポーツジム。名前は伏せておくことにしよう。
 その日いつものようにトレーニングのあとシャワーを浴びてから、ロッカールームに戻った。
 ロッカールームの一角には洗面所があり、壁には大きな鏡と洗面台、そしてその前に籐製の椅子が四つ並んでいて、二人に一台の割でワゴンテーブルのような籠がおいてある。取手と吹きだし口が直角に曲ったよくあるタイプのドライヤー2個とティッシュの箱が置かれているその籠もやはり籐製で、一人めと二人めの間、三人めと四人めの間にそれぞれ置かれていた。

 パンツをはき、髪の毛をバスタオルで拭きながら洗面所にいくと、左端と右端にはすでに人が腰かけていてその真ん中では一人の男が、まるで今からピストルで頭を撃ち抜こうとでもするかのように、仁王立ちして頭にドライヤーをむけていた。二人分のスペースを占領してそんなに気張って髪を乾かさなくてもいいのに、そんなことを内心思いながら、真ん中のその男にスペースをあけてもらおうと、私は声をかけた。
「ちょっと、失礼」
 私の声が聞こえなかったのか、男は動かない。
「すみませんが・・・」
 男は無視しつづける。
「ちょっと空けてくれませんか」といささか荒い声を出したが、男は相変わらず鏡に向かったまま微動だにしない。
 すると、この様子に見かねたのか右端に座っていた人が、私の入るスペースをつくるため椅子をつめてくれたのだが、かなり窮屈そうな様子だった。彼の向こうに立てられているパーティションに、彼の右肩がくっついている。
「ああ、すいませんね」
 私は彼に会釈をしながら籠を最小限だけ右にずらし、椅子をまたいで彼の作ってくれた狭い空間に身体をいれた。

 ようやく椅子に腰かけることのできた私は、何を考えているのかわからないこの仁王立ち男の鏡のなかの顔をまじまじと見つめた。相変わらずピクリとも動かずにドライヤーをあてているその男は、歳のころなら50歳ぐらいで色は浅黒く、ほとんど坊主頭のような髪をしていた。彼は何かに取り憑かれたように鏡のなかの自分の顔をじっと見つめていて、まるで視線を動かさない。すぐ隣で、彼を見つめる私の顔が眼に入らないわけがないと思うのだが、それでも彼は、一瞬たりとも視線をはずさないどころか、まばたきひとつしない。

(糞オヤジが)
 そう思いつつも私は、髪の毛を乾かそうと籠のなかのドライヤーを手に取ると、おかしなことにドライヤーを頭まで持ってくることができずに三−四十センチほど浮いたところで止まってしまうのだった。
 あれ?コードが引っかかってるのかな、と今度は力をこめて引っ張ってみたが、それでもまだ途中で引っかかている。一体どこで引っかかってるんだろう、さっき籠を動かしたときに籠で踏んじゃったかな、とコードの先を辿ってみる。ドライヤーの握りから伸びたコードは、洗面台と籠の狭い隙間から下に落ち、床で弧を描きながら、仁王立ちオヤジの両足の下でまるまっていた。
(またコイツか・・・)
 両の足裏にコードが引っ張られる感触が感じられないはずがないと思うが、やはりこのオヤジ、突っ立ったままだ。いや、そもそもこんな丸まった電気コードを踏んで平気でいられる神経というのもどうかと思うが・・・。こうなるともう嫌がらせとしか思えなくなってくる。

 鏡の中のオヤジに向かって、「すみませんが・・・」 
 と、いい加減腹が立ってきたわたしは、今度は両手でコードを掴み、
「ドライヤーのコードをあんたが踏んでるんだけど!」
 言うと同時に力をこめて強く、コードを引っ張った。
 ずる、ずる、ずる、と延びるコード。
 私は彼の足元をみる。
 その瞬間、彼は何か汚いものでも払うように足でコードを蹴っ飛ばした。(こっちの様子がシッカリ見えてんじゃねぇか)

 やっとのことでドライヤーを使うことが出来た私は、温風を頭に感じながら鏡の中を睨みつけた。席を空けてもらおうとしたときから、ずっと同じ姿勢で、ずっと同じ場所にドライヤーをあてている仁王立ちの男の顔を。
 知っててやってるくせにナニ,固まってんだ、コノヤローッ!

 ついに怒りが臨界点に達してしまった私は、おもむろに立ち上がると自分の持ってるドライヤーでこいつの後頭部を思い切りぶん殴ってやった。ガンと鈍い音がして、オヤジはアタタタタと頭を抱えこむ。
「ざまぁ、見ろ!バカメッ!」
 そんな映像がハイ・ビジョンのような鮮明さで頭のなかに映しだされたのだが、もちろん実行するわけにはいかない。ただただ黙って私はドライヤーで髪の毛を乾かした。さっきから瞬きもせずに自分の顔を真っすぐに見つめつづけ、その視線をかすかにも動かさない彼の顔を時々、睨みつけながら。
 それから数分後、私はうしろの髪の毛を乾かそうと少しばかり俯いたときだった。
 突然、それまで足でコードを蹴とばした以外はパントマイムのマルセル・マルソーようにまるで動かなかった彼が、ドライヤーを音をたてて籠に叩きつけた。私がそっちに顔を向けると彼は、憤慨したような荒い鼻息をひとつして、立ち去っていったのだった。
(・・・なんだ、こちらの眼があるうちは動けなかったのか)
 動けないばかりに、ドライヤーの温風をずっとあてつづけていた所は、さぞや熱くなっていたことだろう。なんせ十分近くもドライヤーを動かすことなく同じ恰好でいたからなあ。やっぱり熱さに我慢しきれなくなったんだろうなあ。

 私は椅子と籠とを元の位置に戻して−−−両端の人たちは既にいなくなっていた−−−ため息をついた。
(最初からふつ〜うに、対応していればいいものを。変な意地を張るからそういうことになるんだよ)

 最近の若いやつは、という言葉があるが、碌でもないやつはどんな年代にも、どんな場所にも平均分布しているもんだ。
 くそオヤジめっ!

 TOPへ


2.ジムでの出来事その2

 これは私の失敗。極度の近眼である私は、眼鏡をとると他人の顔はほとんど見えなくなる。
 そんな私がプールからあがり、バスルームに行ったときだった。
 バスルームは左にジャグジー、右にシャワーの個室が奥にのび、そしてその間を狭い通路が通っている。各シャワーの扉は片開きの曇ったアクリルで、だいたい肩の高さである。だから使用中ならば、壁にむかって温水を浴びている人の後頭部が扉の上に黒くみえるのだった。

 ざっと見渡したところ、ほとんど満員のようで、どれもこれも扉の上に黒いものが見える(ような気がする)。しかし私は近くに寄らなければ本当のことがわからないので、一つ一つ確かめながら通路を進んでいった。そして手前から四つめくらいのところがうまいことに空いているようだった。扉の上からは奥の壁が見えているだけである。
 なんだ、空いてるじゃないか。
 迷わず私は扉を押す。するとなにやら抵抗感があって、扉は途中で止まってしまう。なにかに当たっているような感じだ。
 おかしいなぁ、あたるようなものは何もないはずだけど・・・。もう一度押してみたが、やはり少しだけ開いて止まってしまうのだった。
 立てつけ悪いなぁ、よし、日ごろのトレーニングの成果を見せてやる。
 今度は両手を使って扉を押してみた。途中でやはり、かなりの抵抗感を感じたのだが、日ごろ鍛えたこの身体、さらに力をこめると扉は徐々に開いていった。
 やったぁ、と身体をなかに入れて、あっ!
 驚いた。
 そこには、怯えたような表情を浮かべた背の低いおじさんが、背中を隣との仕切りにくっつけてこちらをジッと見上げていたのだった。そして彼の頭は扉の上端より30cmくらいも下にあった。
 どうりで見えなかったわけだ。
 おまけに彼の頭は禿げていたので髪の毛はわずかしかなく、といってもヤカン頭ではなかったのだが、アクリルの扉を通して黒い影が映らなかったせいもあったかもしれない。
 いずれにせよ私は、
「ああっ、すいません。失礼しました」
 と謝りつつ、慌ててそこから出たのだった。

 それから一ヵ月以上たったある日、トレーニングを終えた私は、同じようにバスルームに入っていった。今日も混んでいるようだ。ド近眼の私はひとつひとつ確かめながら奥へと進む。
 扉の上には頭が見える。
 ここもいる。
 次もだめ。
 その次も・・・おっ、空いてる、頭が見えない。見つけましたよ。
 迷わず私は扉を押してなかに入ろうとした。ところが何かわからない抵抗感があって、扉は途中で止まってしまうのだった。もう一度、扉を押してみるのだが、やはり30度くらい開いて止まってしまう。
 う〜む、シャワーの扉ってこんなにたてつけ悪かったかなぁ、 いささか不思議ではあった。不思議ではあったが先の事件など、とうに忘れちゃってるオチャメな私なのである。
 だてにバーベルを持ち上げてないゾ、日ごろの成果を試してやる、と私は両手でぐぐっと力をこめて押してやった。
 徐々に扉は開いていき、途中こんどはかなりの抵抗感を感じたが、更に力をこめて押してやると急に抵抗がなくなり、すーっと開いていったのだった。
 よお〜し。
 何かをなし遂げたような満足感を憶えながら身体をなかに入れると、押えていた手を離した。奥に押しやられた半透明のアクリルの扉は、バネの力で一気にもとに戻る。そしてその扉の向うには・・・・。

 あっ!
 驚いた。本当に、驚いた。
 扉の蔭から現れたのは、背の低いおじさんが怯えたような表情を浮かべて私を見あげている姿だった。そしてこの瞬間、私は思い出した。
 ああ、この間のおじさんだ。なんでまた・・・?
 まずいことに向こうも思い出してしまったらしく、目の奥が一瞬、ギラリと光った。
「ああ、すいません、申し訳ありません」
 慌ててそこを逃げだしたのは言うまでもない。
 一度ならず二度までも。(そりゃ、向こうの台詞だって)

 シャワーを浴びながら、なんで判んなかったんだろうと自分でも不思議だった。トレーニング後は脳みその酸素が少なくなっていて、それと疲労で、思考力が落ちてるせいかな。それにしても・・・あのオジサンは何故、何も言わなかったのだろうか。「使ってるよ!」とか「なにすんだよぅ!」とかなぜ言わなかったんだろう。悪いことしたなぁとは思うのだが、それが不思議でしかたがない。

 TOPへ


3.みくりが池温泉にて

 室堂の「みくりが池温泉」に初めて泊ったときのこと。
 宿に着いた我々は受付を済ませ、部屋に荷物を置くと、すぐ風呂に行った。日本一高いところにあるという温泉に入ったのである。気分は上々。窓から見える夕暮れの景色は、残念ながら雲ばかりだったがそれでもいい気分には違いなかった。
 そして風呂が終わればお次は夕飯だ。腹が減ったぞ。どんな料理かな。温泉とご飯、山の楽しみだ。

 食堂に行く。学食のように細長いテーブルのひとつに座るよう案内される。窓側の一番端は京都から来たという母子、その右隣が我々、そして我々の右には二十二、三才くらいの若いカップル、いずれも向かい合わせに坐らされた。つまり私の向かいは、左から京都の母、相棒、妙齢の(死語!)女性。なかなか美人だが・・・・・化粧美人か、な?・・・だ、な。
 やがてスタッフがやって来て、我々とこの若いカップルとの間に味噌汁の鍋を置いていった。(これが悲劇の始まりであった)これで6人分である。さぁ、飯だぞぅ、私はさっさと立ち上がると、茶碗を持ってご飯をよそいにいった。

 数人のあとに順番が回ってきて、山盛りのご飯を持って席に戻ると、入れ替わりに若いカップルが茶碗を持って席を立つ。残りの三人が、さっきと打ってかわって何だかシラーとしたように元気がない。どうしたんだろう、と思いつつも目のまえのご馳走に目がくらんだ私は味噌汁のお玉を手にした。
 味噌汁をかきまわし、椀に入れるとお汁ばかりで具が殆どない。やけに淋しかったが山小屋じゃ、こんなもんなのかなと思い、別段気にもせずパクついた。
 残りの三人もようやく食事を始めた。
・・・・・
 食事を終え、部屋に戻った私は、
「味噌汁がしょぼかったなぁ。山小屋って、こんなもんかなぁ。でもサ、他の料理はいろいろあって決してチンケじゃなかったのに、味噌汁だけ、変だよなぁ」と畳に寝っころがった。
 八人の大部屋で、片側はニ段ベッドがニ台で四人、もう片方は畳で四人が寝ることができる(ちと狭いが)。そこに我々ふたりだけである。
「いや,違うよ」と相棒。そして堰を切ってことの真相を語り始めたのだった。

 やがて、相棒の言葉をすべて聞き終わった私は、タバコを手にして、窓辺に立った。窓を少し開け、タバコに火をつける。外は闇である。街灯の明かりなどない、自然な姿の闇である。
 この闇は人間の心の闇でもあった。
 相棒が語った真実とは・・・。

 私が茶碗を持ってご飯をよそいに行くと同時に、化粧姉ちゃんが、味噌汁に取りついたそうである。彼女はお玉で鍋の中を何度もかき回したあと、一杯掬い上げた。そして鍋の内側を使っておつゆを切り、具だけを自分の椀に盛った。具はお玉の上に山盛りだったそうだ。もう一度同じ行為を繰り返し、再び自分の椀に入れる。最後に具がいっぱいの椀におつゆを少しかけたのであった。続けて男の椀にも同じ行為を同じ回数だけ繰り返す化粧姉ちゃん、そしてその様子を嬉しそうに見つめている男の顔。残された三人はその光景に、言葉を失い、具も失い、しばし呆然としていたのだった。私が戻ったときに三人が疲れたような表情をしていたのはそのせいだったのだ。人間の心の闇を思わずにいられなかった。

 私は胸深く吸い込んだ煙を思い切り、吐き出した。
 馬鹿女に馬鹿男、か。俺の味噌汁には「なめこ」がふた切れしか入ってなかったぞ、それをなんだ、おまえらは山盛りに食いやがって。食い物の恨みは恐ろしいぞ、飯は山の楽しみなんだぞ。いいか、俺はふた切れしか食えなかったんだぞ。(相棒はひときれだったらしい)
 くそうっ!地獄谷に沈めてやる。それとも黒部湖か。いつか天罰が下るぞ、バカやろうっ。

 タバコから立ち上る煙が窓の隙間から吸い込まれるように流れていく。その煙を目で追いながら、私は心の中で呟いた。
『ったく、最近の若い奴らときたら・・・・・』

 TOPへ


4.パソコンショップでの出来事

 それはある年の暮れのこと、パソコンショップへ買い物に行ったのだった。そのショップの名前は、仮に「まんなかや」という事にしておこう。お目当てのものを手にしてレジに行ったときのことだ。

 カウンターのなかでは五、六人の店員がたむろしていたが、私の相手をしてくれたのは二十歳くらいの女性だった。彼女は商品をスキャンし、「二万五百円です」と袋に入れる。
 私は財布を開くと、お年玉用に出まわりだしたピン札を数え、一万円札二枚と千円札一枚を差しだした。
 彼女は受取った札を目の前で数え、「三万千円お預かりします」と平然と言い、レジを打とうとした。(ここがそもそも不思議である)
「えっ、三万千円?」と私。
「はい、三万と千円です」と彼女は札を広げて見せる。(これまた不思議だよなぁ。まだ、気がつかないんだよ)
 そう、ピン札だったために私は数え間違えていたのだった。
「あっ、じゃぁ、一万円返して」そう言って私は手を差しだす。
 すると彼女は手にした札とレジを交互に見比べだした。また、見比べた。さらにもう一度、見比べた。
・・・・何やってんだろう、そんなに考えることじゃないのに。

 それからゆっくりと一万円札を右手に取ったが,その手は空中に静止したままだ。まだ、抵抗を示している。

・・・・えっ、何故なの、なぜ一万円を返さなければならないの。そんなことしたら店長に叱られちゃう。
   でも、このお客は一万円を返せと言っている。ああ、いいの?そのまま渡しちゃっていいの?
   確かに店長はお客様は神様だ、と言ってたよ。でも、一万円も返しちゃ,駄目だよね。
   でも待って、私が何か間違えたのかな。
   ううん、そんなことないよね。だって、まだ預かり金を打ってないもん。
   ああん、どうしたらいいの?だれか、ねぇ、誰か来て。誰でもいいから私を助けて。
   ああ、だめ、手が、手が、手が動いちゃう。てんちょう〜。

 と、考えていたかどうかは判らないが、彼女は恐ろしくゆっくりとした動作で、一万円を返してよこしたのだった。
・・・・なぁーにやってんだろう。三万千円ひく一万円は、二万千円だろうが。
   二万千円あれば二万五百円の買い物ができんだろォ。

   そんなこと小学生でもわかるぞ。ちゃっちゃとしなさい。
   ったく、なぁ。
   (こういう時に人格が出ますな。品性下劣、まだまだ修行が足りないぞ。反省。)

 彼女は小首をかしげつつもようやくレジを打ち、五百円のおつりがあると判ると、安心したようだった。
「五百円の・・・お返し・・です」
 私はおつりを受け取りながら、すいませんが、領収書をお願いしますと一抹の不安を抱きつつも言った。
「はい、お名前は?」
「XXXXです」
 彼女は取り出した領収書にボールペンで宛名を書きだした。領収書の上に、インクが文字を作り出していく、そしてそれを見ながら私は、声にならない声をあげていた。
「わ”、え”、お”」
 領収書には私がさっき言った「XXXX」とはまるで関係ない「○○」という文字が。
「すいませんが、○○じゃなくて、XXXXです」
「・・・・あっ、・・・すいません」
 それを破り捨て、あらためて書き出す彼女。
 ああ、この娘は緊張してるんだ、メチャクチャ緊張してるんだ。それで頭の中が真空になってんだ。

 二枚目の領収書に書かれた宛名は「XX○□△」
 それなのに、彼女は何度も読み返している。無言ではあるが、目が文字を追い、頷いたりしている。
(何を頷いてるんだろう、前半は合ってるけど後半がまるで違うじゃん)
 私はもう一度、言った。
「あの、XX○□△じゃなくて、XXXXなんですけど・・・」 ゆっくりと、優しい口調で、一語一語区切りながら、
「X、X、X、X、です」と。
 いまや私はこの娘に同情さえ、感じはじめていたのだった。
「・・・・えっ、・・・・あっ、・・・・すいません」
 三枚目の用紙に取り掛かる彼女。一文字、一文字、チカラを込めて書いている。しかも一文字ずつ頷きながら。そしてようやく出来あがった領収書には「XX○X」という宛名書きが。
 ああ、惜しい、もうちょいだったのに。けど、もういいや。私は何だかオカしくなって、笑顔でそれを受け取った。
「は〜い、どうもォ」(頑張るんだよ!)

 長かったな〜。やれやれと、顔を上げると、男の店員たちが三人、後ろの棚に寄りかかっているのが見えた。そして三人が三人とも、口に薄ら笑いを浮かべ、横目で彼女を見つめていたのである。
 ナニ、コイツラ?
 なんて嫌な表情をしてるんだろう。自分たちが今、どんな表情をしているかわかってるのかなぁ?だいたいにして、この人たちのこの態度は一体なんなんだよ。接客業としてオカシイだろ。客のことを考えるなら、もたついてる彼女と代われよ。あるいは全てが終わったときに、お手間かけてすいません、のひとことを言ってもバチがあたるまい。このときの彼らの目には客の姿などなく、おそらく普段、小馬鹿にしている女性店員のぎこちない接客振りしか映っていなかったんだろうな。しかもそれを楽しんでいる。(でも、なんでオレがこんな嫌な表情を見なければならないんだろう、しかも三つも)

 以来、この店はなるべく使わないことにした。
 この女性店員のせいではなく、薄ら笑いを浮かべていた三人に会いたくなかったからだ。こいつらはパソコンのパの字もわからないオッチャン、オバチャンユーザーに対しても顔にこそ出さないものの、心の中でこんな表情をするのだろうな。
 もうひとつのパソコンショップ 「PBオー」 は遠くて、行くのが大変なのだが「まんなかや」より、遥かにマシである。少なくとも棚に寄りかかって、冷笑を浮かべているような店員はいない。

 あのお姉ちゃんは、どうしているだろうか。これを書きながら、心配になってきた。うまくやってるだろうか。「まんなかや」はもう辞めたろうな。ま、その方がいい。頑張れよ〜!

 
TOPへ


5.ンビニの駐車場

 もう随分前のことだ。
 ある日、仕事帰りに国道に面したコンビニに寄ったことがあった。午後七時半を過ぎていたと思う。そのコンビニの駐車場は狭くて、たしか4台分ほどのスペースしかなかったように記憶している。
 ウィンカーを左に出して国道からその駐車場に入ると、一台の乗用車がフロントを国道に向けて停まっていたので、私はその車のドライバー側に、そのまま頭から車を突っこんだ。ちょうど道路ですれ違うような恰好で、私の右手には隣の車の後部座席の窓がある。私の車は一番左端であった。

 エンジンを切り、セカンドバッグを持って、外に出ようと横を向くと、隣の車にはドライバーが乗っていて、俯いて何かを見てるようだった。眼鏡をかけた、若い小太りの男。連れでも待ってるのかな、と思いつつ車から出ると、私は狭いニ台の車の間を歩き出した。
 店内に入ると、客は一人もいなくて、蛍光灯の灯りがやけに白々としていた。
 あれ? だれもいないや。トイレかな?ま、そんなことはどうでもいい。「カライーカ」を買おーっと。

 私はサッサと買い物を済ませて店を出る。駐車場には相変わらずニ台の車しか停まっていない。トイレから出た人もいなかったし・・・人を待っていたんじゃなかったのかな、何やってんだろ、あの車は。
 自分の車に乗り込むために、再び二台の車のあいだを進む。隣の車の運転席に座っている小肥りの男に背後から近づいていく。
 そのとき初めて、彼が何をしているのか、わかった。彼はハンドルの上に本を乗せ、夢中になって読んでいたのである。そして私は自分の車のドアを開けるため、彼の真横に立ったとき、その開かれた本がハッキリと見えた。同時に心のなかで、ゲッと声をあげた。
 その本は、なんとセーラー服を着た女子高生が下半身スッポンポンで大股開きをしている写真雑誌だったのである。
 ウソーッ、こいつ、こんなとこで、こんなもの見てやがんのかー。頭がイカレてんじゃないの?
 私の顔は引きつり、強張り、ゆがんだ表情のままドアのロックを解除した。
(その写真が、ボカシだったか黒塗りだったかは記憶にない)

 ドアを開け、シートに座ると私と彼とはちょうど背中あわせになるような位置だった。私は彼のほうを窺いながら力をこめて、ドアを引く。ドアは大きな音を立てて閉った。
 その音に驚いたように、彼はパッと顔を上げたが、こちらを見ることなく反対側に顔をそむけた。
 う〜む、なんか変だなぁ。普通なら「見られたかな?」と音のした方を窺うんじゃないか、なのにコイツはこちらを背にするように身体をずらし、むこうを向いてしまった。
 一体なんだろな、コイツ。兎に角、変なヤツなのである。私は、彼を観察してみようと即座に決めた。(やっぱり、好奇心に勝てないのだ)

 助手席の荷物をいじるような振りをして、しばらく隣の車に背を向けていたが、理由もなく荷物をいじるのはナカナカ大変なことで、財布の中を見たり、鞄の中を探ってみたりしたが、どうにも間が持たない。ものの数分で我慢ができなくなり、私は顔を上げてしまった。そして、そうっと彼を窺うと、向こうに顔をそむけていた彼がさっきと同じようにまた本に見入っている。
 また見てやがる、いつまでもこんな所で、そんなもん見てんじゃネェよ。家に帰ってじっくり見りゃいいじゃないか。

 と、再び彼は顔を上げて、向こうを見た。そしてそのままずっと見つづる。
 なにソッポ向いてんだよ。こっちに俺が居るの判ってんだろうに。向こうを見つめてても、お前は見られてるんだよ。(うっ、なんか俺のほうがストーカーっぽいじゃん)
 それともナニかあ、向こうに何か良いもんでもあんのか?ええ?
 不思議に思った私は隣の車の後部座席の窓ガラスを通して、彼が見つめている方を見てみた。
 アーッ!
 たしかに、あった。いや、居たのである。窓ガラスの向こうでは、といっても隣の車から更に5−6メートル離れたところなのだが、そこでセーラー服を着た女子高生が自転車に手をかけたまま、茶髪のニィチャンと立ち話をしていたのだ。
 私が助手席の荷物をいじっている振りをしている間にやってきたんだろうか。店を出たときには気づかなかったもんなぁ。自転車も二台あるから、二人でやって来たんだろうが、それより隣のヤツは一体何をやってるんだ?
 私は後ろを振りかえるようにして、小肥りの男を窺う。
 彼はまた本に視線を落とした。斜め後からかすかに見える彼の頬と目尻のあたりがニヤついている。
 そうか、彼は写真と実物を頭のなかで合成しているんだ。現実と写真のコラージュ!う〜ん、ある意味では発展的手法ではあるが・・・。
 ヤツはこの瞬間のためにコンビニの駐車場でずっと待ちつづけていたのだろうか。
 だが・・・やはり、気持ち悪いぞ。(現代用語を使って書けば、キモイ!)

 それにしてもだ、こいつ、こっちに何の注意も払わないのは何故だ?それがわからない。普通なら(普通ならこんなことしないけど・・)周りに注意を払って、見つからないようにこそーっとやるだろう。ましてや、そんな破廉恥な行為をしている最中に隣に他人がいるのを知っているのである。もし私がヤツが居なくなるまで待つけどなぁ。それをコイツは、背を向けて済ませているのだ。自分の世界に没入しているからだろうか。(ただいま画像合成中だから、忙しいのです)いや、おそらく車という外殻(シェル)が、彼に安心感を与えているのだろう。
 なんて分析している場合ではないぞ。彼がとても不気味な人間に思えて、だんだんと胸がムカムカしてきた。
 女子高生は茶髪のニィチャンがいるから大丈夫だろう。

 私はエンジンをかけて、車を一旦バックさせてから、彼の前を横切った。 
 街灯に照らされた男の横顔は、ニヤついていて、妙に白かった。


 
TOPへ


6.ジムでの出来事その3

 そのとき私はマシンが空くのを待っていた。
 マシンはロータリートーソといい、シートに跨いですわり上半身をひねる腹筋(脇腹)のためのマシンである。腰まわりの引き締め効果が期待できるので、人気のあるマシンなのだが、左右を別々に行うため、1セットの所要時間が長いのが欠点である。
 今、若い女性がそれを使っている。私は彼女の後方に2−3m離れて順番を待っていた。「早く終わんないかなぁ〜」
 おっ、彼女の動きが止まったぞ。私は1歩あゆみ寄る。女性がシートの上で大きくため息を吐いて、身体をずらした。
 よし、次は俺だ。私は更に一歩、近づく。
 そして女性がシートから降りた瞬間、私の待つ反対側から50過ぎのオッさんが俯いたまま、足早にマシンに突進してきた。女性はまだマシンから降りたばかりで、彼女はマシンの傍らに立っている。そこに強引に割りこんできたのである。オヤジは、彼女にぶつかりながらもそんなことはまるで意に介さず、シートに跨って負荷調整を始めた。
 驚いた彼女は身体を縮めて、「すいません」と謝ったが、このオッさんは彼女のほうを見ることもなく「いやいや」と言いつつ、上半身をひねりだしたのだった。

 ヤラレタ。取られちゃったョ。でも、オッさん、「いやいや」じゃなくて、あんたのほうこそ「ごめんなさい」だろうが。それに較べて、この女性は出来た人だな。それにしても・・・俯きながらマシンに一直線だったなぁ。俺が待ってるのを知ってたんじゃないの?でもま、仕方ない。
 私はそれを諦めて、違うトレーニングに移った。

 そんなことがあってから何週間か経ってのことである。
 私はチェストプレスという胸と腕を鍛えるマシンをやっていたのだが、そこへ、このオヤジが現れたのである。私は基本的に1セットやったらマシンを空けるようにしている。セット間のインターバルを3分以上とるので、その間に他の人ができるようにとの考えからである。1分あれば1セットできるのだ。
 彼はマシンの6−70cmほど近くにニコニコしながら立った。普通は、いくらマシンの順番を待つとはいえ、こんなに近づいては来ないものなのだが・・・。彼とは友人でもなく、知人でもなく、顔馴染みでも顔見知りでもなく、いやそれどころか一度として言葉を交わしたことさえない、もちろん親しくなりたいとも思わない単に顔を見たことがあるというだけの関係しかないのに(手っ取り早くいえば赤の他人)。こういう手合いは嫌いなのである。
 図々しいオッさんだな。そんなにくっつくなよ、1セットやれば俺はどくよ。気持ち悪いからそのニコニコ顔はやめてくれ!
 内心、おぞましさに悲鳴をあげながらも1セットを終えた私は、マシンを彼に譲った。

 通路を行ったり来たりして呼吸を整える。インターバルでも身体を動かすことが大切なのである。
 通路をウロウロしている間に3分以上たった。マシンを見ればあのオヤジが休んでいる。1セット終わったんだな、今度は俺の番だよ。当然、代わってくれるものと思って私が彼のほうに近づいていくと、今まで顔を正面に向けていたこのオヤジ、いきなり俯いて眼を瞑ってしまった。
 ナニ?
 おいおい、そう来るか。(文字どおり、都合の悪いことに眼をつむる、である
 う〜む、性にあわないが仕方ない、私はこのオヤジが使った手法を用いることにした。すなわち彼の傍らに立ち、ついでにニコニコ顔も作ったのである。だがこのオヤジは眼をつむって俯いたままで、時々、ハァーとため息を吐いたりなんかしちゃってる。
 コイツ、すっ呆けやがってェ。
 ニコニコ顔の私は我慢強く、待った。(むかし竹中直人が笑いながら怒る人、てのをやってたなぁなどと思いつつ)
 1分経ち、2分経った。
 それでもオヤジは眼を瞑っている。あー、駄目だ。もう耐えられない。悔しいが俺の負けだぁ。
 戦いに敗れた私は、彼に背を向けて再び通路を歩きだした。そして彼から5mくらい離れたところで振り返ってみると、ヤッコさん、トレーニングを開始していた。
 くそう、やりやがったな。
 それでも私は待った。通路をウロウロしながら、待った。

 再び彼はインターバルに入ったようだ。取っ手から手を離した彼は顔を正面にむけて、大きな吐息とともに腕をさすっている。
 よし、私はニコニコ顔を作ると彼に、近づいていった。1mほどに近づいた時、彼はまたもや眼を瞑って、俯いた。う〜ん、困ったオヤジなのである。他人は早くどかせ、自分は独占かい。
 ニコニコ顔もやめた。どうせ、見てやしない。彼の傍らに立ち、咳払いなんかしてみても無視である。どけよ、とも言えないし・・・。膠着状態のまま時は過ぎ、やがて数分が経過していった。それでも彼は同じ恰好のままである。
 こうしている間に1セットできるだろうに、もう〜。くそオヤジが!
 (この図々しさ、50オヤジはツオイなぁ)

 またもや戦(いくさ)に敗れたことを悟らざるをえなかった私は、その場で彼に背を向け、左足を1歩、踏み出してから、パッと彼のほうを振り返った。その途端、思わず私は吹き出していた。
 なんと!
 ヤツはマシンを使っていたのである。50を過ぎた(多分)だいの大人が、こんなにまで馬鹿馬鹿しいことを懸命にやっているのだ。その姿に私は声を出して笑ってしまったのだが、しかし彼の耳には届かなかったらしく、必死の形相でトレーニングを続けていた。
(今から思えばこのオヤジの行動はよくわからないな。背を向けた途端にトレーニングを開始しなくてもいいのに。やっぱりいくらかのヤマシサは感じていて俺の眼があるうちは動きたくても動けなかったのかも知れない)

 さて、それから更に数週間たった頃である。
 私はトレッドミルというマシンをやっていた。流れるベルトの上で走ったり、歩いたりするあのマシンである。4台並んでいて、右端のマシンのむこうには柱が立っている。私は右から3番目のマシンを使っていた。人気のマシンなので今日もすべて使用中である。30分の予定で早足で歩いていたが、既に20分以上が経過して、Tシャツは汗で濡れていた。

 汗を拭き拭きスタコラ歩いていると突然、柱の影からあのオヤジが現れたのを視界の端にとらえた。当然、私は気づかぬ振りをする。ところが何を思ったのかこのオヤジ、またもや笑いながら私のほうに近づいて来るではないか。
 なんだ、こいつ。来るなよ、こっちに来るなよ。シッシッ!
 だが世の中というものはどうしてこうも皮肉に充ち溢れているのだろうか。なんとこのオヤジは私のところに来てしまったのである。(よく来るよなぁ。ふざけたオヤジだよ、まったく)
「あと、どのくらいで終わる?」と、ニコニコして訊いてきた。 祝!初会話。
「始めたばかりだから、あと25分くらいかな」汗みどろの私は、笑顔で答える。
 途端に彼の顔から笑みが消え、不満そうに「・・・そう」と柱のほうに去っていった。
 Tシャツが汗で身体にくっついているのに、始めたばかりもないか?ま、いいや。
 オヤジは柱にもたれかかり、テレビを見つつ空くのを待っている。(トレッドミルは使用時間が長いので退屈しないように、前方には天井からテレビが2台つり下げてある)
 まずいな。このまま待たれると時間切れになってしまう。どうしよう。間違えた振りして緊急停止ボタンを押すか。そしてもう一度最初からやりなおすか。とにかくコイツにだけは何があっても譲るもんか!

 などと考えているうちに、ついに残り5分を切ってしまった。やばい。まずいぞ。他の台が空かねぇかな。(なにもこのオヤジにやらせたくない、というわけではない。私が彼に譲りたくないだけなのだ)さて、困ったぞ。
 と突然、柱の影から誰かがこちらを窺うように、にゅうと顔を出した。つられてそっちを見ると、知り合いだった。オヤジの姿はいつの間にやら消えている。知り合いの彼は、目顔で「チワッ」と挨拶をする。おお、これぞ天の采配、雲間から差し込む一筋の光、私は彼を手招きした。
 彼は何ですか、というような顔でこっちにやって来る。
「ここもう、空くから」と私は即座に停止ボタンを押す。
「いいんですかぁ、すいませ〜ん」
 すいません、なんてとんでもない。君は神の使いだよ。これであのオヤジの魔の手から守ることが出来たんだから。
「おお、いいよ」なんて口では言いつつも、私は内心ホクソ笑んでいたのだった。

 マシンから降りた私は、水を飲もうと冷水機のある方に歩き出した。すると向こうからオヤジがこっちに向かって歩いてくる。彼も水を飲んでいたようだが、もう遅い。私に気づき、慌てたように足取りを早めた彼は険しい表情でこちらに一瞥をくれると、擦れちがっていった。
 どうせなら、にこやかな顔で「終ったの?」とでも言えばまだ可愛いげがあるものを。やはりあのニコニコ顔は自分がマシンを使いたいがためだけの演技だったてことが、よ〜く判ったよ。俺が使っていたマシンは空いてないけど、まあ運がよければ別のが空いてるだろうよ。
 冷たい水で咽喉を潤し、ついでに溜飲も下げて引き返してくるとオヤジは、柱に凭れてぼんやりテレビを眺めていた。

 そして、この一件いらい、このオヤジは、私に近づいて来ることはなくなったのだった。
 メデタシ、メデタシ。

 
TOPへ


7.仕事場の出来事

 私はソフト開発の仕事をしている。
 ソフト開発といっても、在庫管理や給料計算といったアプリケーションの開発ではなく、ファームウェアと呼ばれる分野である。このての仕事は一般の人にはなかなか理解し難いのか何度説明しても、わかったのかわからなかったのか、それこそどちらかわからない様子で、ふ〜んてなものなのだ。例えばプリンターやスキャナーといった電子機器にはマイクロコンピューターが入っていて、機器を制御しているわけである。プリンター(インクジェット)で言えば、パソコンから印字すべきデータを受信する、記録紙を引き込む、各色のインクを発射する、記録紙をフィードする、などなどが制御である。その制御プログラムを開発しているわけだ。そのプログラムはICに書き込まれ、基盤にセットされて、蓋をされて世に出て行く。ユーザーは何も気にせず使っているだろうが、機器の中ではプログラムが忙しく動いているのである。

 その職場ではそういった電子機器の開発を行っており、中学校の理科の実験室のように大きなテーブル(事務テーブルを四つほど”田”の字に並べたもの、我々は島と呼んでいた)がいくつもあり、それぞれに開発中の機械が設置され、何人もの人たちが開発に携っていた。
 私たちのプロジェクトは三つの島を使っており、そのうちの一つを私一人が使っていた。隣の島は別のプロジェクトで、殆ど喋ったことがない人が一人で仕事をしていた。

 仕事ではノートが必需品で(今では殆ど必要なくなったが)、それにいろいろとメモを取りながら開発を進めていく。以前はそのために大学ノートを使っていたのだが、システム手帳が世に出回り出したころ、私はいち早く購入し、仕事に使っていたのだった。A5版のでかい奴である。しかも皮製の表紙で決して安くはない、というか正直にいえば高かいシロモノだった。
 メモを取るわけだから当然、机の上に広げて使いたいところなのだが、机の上は開発中の機器の他に、開発のための機器やら測定器やらがあって、とてもその上に広げる余裕がないので、仕方なく膝の上に乗せて使っていた。

 その日もいつもと同じように、膝の上に広げたシステム手帳にいろいろとメモを取りながら仕事をしていたのだが、他の島からお呼びがかかったので、私は立ちあがり、膝に乗せていたシステム手帳を自分がすわっていた椅子のうえに置き、彼の島へ行ったのだった。

 用件は五分ほどで済み、再び自分の席に戻ると椅子はそこにあるのだが、システム手帳が見当たらない。
「あれぇ〜?」と素っ頓狂な声を出しながら隣を見ると、さっきより一人増えている。
 二人の人間が肩つきあわせて、ああでもない、こうでもないと議論の真最中である。
・・・ま、いくらなんでも彼らが俺のシステム手帳をどうかするわけはないな。椅子はそのままあるんだし、手帳だけを無関係の彼らが触るとも思えない。たしか椅子のうえに置いた筈なんだけどなー、俺の勘違いかなぁ?
 そんなことを考えながら、手帳を探すためにその辺をウロウロし始めたのだった。

 自分の島の上をもう一度探し、壁沿いにある棚をチェックし、同じプロジェクトの島を見て歩いた。だが、ないのだ。念のため、隣の島も見回したが、当然のことながら見当たらない。
 そんな私の様子を見て、仕事仲間が
「何してるの?」
「何か探しもの?」
 と訊いてくる。
「いや、システム手帳がなくなっちゃったんだよー」
「またいつものことで、ファイルの間に挟んであったとか、ポケットに入れてあるとかじゃないの?」
 自慢じゃないが私はよく、シャーペンをなくすのである。その度に辺りをウロウロするので皆、またシャーペンを無くしたのかと思うのだった。そしてシャーペンはどこから見つかるかというと、ファイルの間からだったり、分厚い仕様書の束のなかからだったり、時には胸のポケットから現れたりした。
「シャーペンじゃないんだよ、システム手帳だぜ」
「あんな大きいもの、なくなりゃしないでしょう。どこかに置き忘れたんじゃないの?」
「いや、さっきXXさんに呼ばれたときにさ、椅子の上に置いたはずなんだけどなぁ」
「いっしょに向こうに持ってちゃったんじゃないの?」
「そんなこと、ないよ。だって持っていく必要ないもん」
 と、横から、
「判った、トイレに行ったときに一緒に流しちゃったとか」
 人が困っているのに遊ぶ奴である。
「んな、こたぁ、ねぇ」
 別の島からは、
「こっちには、ないよ」
「こっちにも、ないよ」
「腹が減って、食べちゃったんじゃないの?」
「わかった、ファンの女の子が持ってちゃったんだよ、きっと」
 気分転換には格好のネタができたので皆、好き勝手なことを言うのだった。

 隣の島の二人は仕事に熱中しているのか、私の騒ぎなど、なんの関心も示さず仕事をしているようである。こちらを見ようともしない。
 私はそこら中をウロウロして探し回った。五分経ち、十分が過ぎ、やがて二十分が経過したが見つからない。その間、私は辺りを三周ぐらい回っていたのに、まるで出てこないのである。
 本当にあんなでっかいものが何でなくなるんだろう。参ったなぁ−。あれ、高かったんだよなぁー。
「まだ、探してるの?」
「うん、ないんだよォ」
「持ってこなかったんじゃないの?」
「そんなこと、ないよ。だって使ってたもん。ホント、どこ行っちゃったんだろう」
「机の下じゃないの?」
「いや机の下には、ない。今まで一度も使ったこと、ないんだもん」
「でもこれだけ探して見つからないんだから、一応、探してみたら?」
 ああ、しょうがないなぁ。この際だ、探してみるか。 ある訳ないんだよなぁ、無駄なんだよなぁ。
 私は自分が使っていた椅子をどけて、そこにしゃがみこみ、机の下を覗いてみた。

「あっ、あったぁー」
 机の下の棚はホコリだらけなので−−だから使ってなかったわけだけど−−そこに置かれたシステム手帳も当然、埃にまみれて白くなっていた。
 その埃を手で払いながら、
「あったよぉ〜」
「ほ〜ら、だから言ったじゃん」
「でもおかしいなぁ、なんでこんなところにあるんだろう」
「自分で入れたんだよ、ボケちゃったんじゃないの?」
「違う、絶対、俺じゃない。だってこんなに汚いところだから絶対、俺じゃないヨォー」
 ムキになって、弁明に努めたが、信じてもらえたかどうかは、どうも怪しい。私は探しだした喜びよりも、なんだかすっかり疲れてしまって、力なく椅子に腰掛けようとした。

 と、そのときである。
 今まで、まるで無関心を装っていた隣の島の一人が(猪八戒と密かに呼ばれていたヤツ)、椅子に座ったまま、こちらに振り向いた。この瞬間を待っていたかのようなタイミングである。
 彼は、立っている私の顔を見ることなしに、ちょうど鳩尾のあたりを見つめながら、
「あっ、それさっき、椅子に坐ろうと思ったら置いてあったんで、机の下に入れといたんです」
 と、元気な声でおっしゃいやがったのだった。
 彼の言葉は、アドレナリンの大量放出を私の身体に命じたようだった。
 なんですと?
 今、何をお話しやがりました?(アドレナリン放出中)
 もう一度、言ってミレ!
 ・・・・
・・・・・。

 だが当然のことながら、私は社会人である。そこは冷静さを保ちつつ、
「だって、椅子、ここにあるじゃん。これ俺が使ってた椅子だよ」
「ええ、座ろうと思って手帳をどかしたら、そこ使ってるよと言われたんで、別な椅子を持ってきたんです」
 やはり私の顔を見ることなく、しゃあしゃあと、のたまいやがるのである。
 馬鹿か、コイツ・・・。(アドレナリン放出中)

 座ろうと思ったら手帳が置いてあったんで机の下に入れといただとぉ? そこ使ってるよと言われたから、別の椅子を持ってきたぁ? なに言ってんだ、コイツは。 机の下に入れといたんです、の手帳はどうした? 何故、元に戻さん?
 それに私が騒ぎ出してから二十分以上も経過しているのに、見つけ出してから言ってくるとはどういうことだ。その間まるで知らんぷりしてたじゃないか。
 
うーむ、どうしてくれよう、この猪八戒めを。三蔵法師に頼んで、
ブタに戻すか? だが、三蔵法師の連絡先を知らん。
 うぐぐっ。(アドレナリン更に放出)

 この無神経さ、状況判断の無さ、想像力のなさ、推理力の欠如、無知蒙昧、下郎、バカ、ブタ、ハゲ、デブ、おまえの母さんデベソ、etc、etc。頭の中であらん限りの悪口雑言が、渦を巻く。
 しかも英語でも浮かんじゃうのである。
 Mother fxxxer!
 Kiss my ass!
 Fxxx You!

 フランス語でも。
 ケツ クセェ!(←ダンナサン、コレ、チガウヨゥ)

 だが、やっぱり私は社会人である。ことを荒立ててはならないことは、重々承知している。私は自分の感情を抑えながら、
「だったら、早く、言ってくれよ−」
 と不機嫌な顔で言うのが精一杯であった。
 すると、この言葉の裏に先の悪口雑言のすべてが込められているとは想像だにできないアホタレの彼は、
「すいませーん」と一言、初めて私の顔を1ms(1/1000秒)だけ見て、朗らかな声を出し、口先だけで謝りあそばしやがったのだった。

 ハァ〜。
 気を取り直し、椅子に腰掛けた私は仕事を再開したのだが、どうにもスッキリしない。背後から聞こえるブタの鳴き声が−−いや、猪八戒によく似た彼の屈託のない声が、神経を逆なでするのだ。
 こいつ、自分のやったことがどれだけ俺に迷惑をかけたか、わかってんのか。
 私は大きな溜息をひとつ吐いて、仕事に没頭した。(アドレナリン、ほんの少しだけ減少)

 その夜、私はトンカツを食べてやった。

 
TOPへ


8.スイミングクラブ事件1

 今のスポーツジムに通う前に、私はスイミングクラブに通っていた。そこは昼間は子供のスイミング・スクールなのだが夜になると大人に開放するといったスタイルで、夜の部はスクールがあるわけではなく、好き勝手に泳ぐようになっていた。当時としては珍しく、夜の9時半までやっていたので有難かったのだ。
 ある夜、ひと泳ぎするベぇとロッカールームで着替えていると、プールの方から子供の甲高い笑い声が聞こえてきた。珍しいな、と思いつつ着替え終わってプールに行くと、親子の四人連れがプールの中ほどで遊んでいる。
 上が男の子で5−6才、下は女の子で3−4才くらいか。まぁ、微笑ましい親子、といったところかな。
 父親には見覚えがあって、一人で泳いでいる姿を何回も見ていたし、数週間前には男の子と一緒に来ていて、そのとき初めて会話を交わしたのだった。メガネをかけ、色白の小太りの男で、体毛は殆どなかった。
 ちょっとばかり変わっていて、私と話をせずに、息子と話す人なのである。

 その時には、プールから上がったロッカールームでこんなやり取りが交わされたのだった。
「泳ぎが上手ですね。以前やってたんですか?」
 と私は話しかけた。
 すると彼はこちらを見ずに、
「そうだよねぇ、学生時代に水泳をやってたんだよねぇ」
 と笑顔で、隣の息子に向かって答えた。
 ?・・・? ナンダイこの人は・・・?
「学生時代て言うと、大学ですか」
「中学時代だよねぇ」と息子に満面の笑みを向けた。
・・・なんだかなぁ、変な人だなぁ。それでも私は続ける。
「種目は何が得意だったんですか?」
 するとまたもや子供に向かって、
「お父さんは、クロールだったんだよねぇ」
「そう・・・ですか・・・」
 さすがに私はもう会話をする気力が失せて、さっさと着替えを済ませて帰ってきた。そんなことがあったのだ。

 あの人だ。ふ〜ん、こうして見ると別にどこにでもいそうな普通の家族だよなぁ。まぁ、いいや。私は空いている一番端のコースに入って泳ぎ出した。

 何百メートルか泳いで、コースの端で休んでいると、プールサイドにあがった女の子が何か叫んでいた。最初何を言ってるのかまるで判らなかったが、その声を何度か聞くうちに聞き取れるようになってきた。女の子はこう叫んでいたのだった。
「ウンコが出ちゃ・・・。」
 なに?ウンコぉ?出ちゃうよなのか、それとも出ちゃった、なのか。どっちなんだ。出ちゃうよ、なら問題あるまい。しかし、出ちゃった、だとこれはエライ問題だ。それに女の子はいつからプールサイドにいたんだ?そういや、息継ぎのために顔を上げるたびに、女の子がプールサイドをウロウロしてたな。プールから上がってから出ちゃったのか、それとも中にいたときから出ちゃったのか、どっちだ。
 しかし、それにしてもこの親はナニやってんだろう。女の子は何度も叫んでいるのにニコニコしながら平気で泳いでいるじゃないか。最初の叫び声で、彼女のところに行ってやれよ。
「おとうさん、ウンコがぁ・・・。」
 女の子が半泣きになってもう一度叫ぶと、父親がようやく女のこのところに駆けつけた。そして彼女の手を掴み、慌てて出口に消えていった。母親は男の子と楽しそうに泳いでいる。

 これは由々しき問題である。たしかに考えてみれば、プールの水などきれいな筈はない。耳の穴に入り、脇の下を洗い、臍のゴマを流し、股間をすすぎ、足の裏を舐めているのだ。そんな水を飲んじゃったりしたことだって一度や二度ではない。しかし、である。プールの中でウンコをすれば、それは水に溶けこんで、いくら濃度が下がろうとも、ウンコまみれ、ということになる筈だ。
 今、母親と男の子が笑いながら遊んでいる辺りから、波紋が広がるように、私のいるところまで黄色に染まってくるような気がする。

 私はゲンナリしてしまい、プールから上がった。さすがにもうプールの中にいる気がしなくなっていたのだ。ロッカーからバスタオルを取り出し、シャワールームに入ると、シャワーの音に混じって、子供を叱る父親の声が聞こえた。
「もっと、早く言わなきゃ、駄目でしょ。判った?」
「だってぇ・・・」と女の子の声。
 ああ、やっぱり出ちゃった、だったんだ。いま、身体を洗ってるんだろうな。
 私は、一番奥にあるサウナに入った。10分ほどしてサウナから出ると、さきの親子はもういなかった。きっと着替えて帰ったんだろう。そう思って私もシャワーを浴びた。ロッカーに戻ると人影はなく、やっぱり帰ったんだなと思いつつ、着替えをしていた。

 あと靴下を履いて終わり、というときに顔見知りのおじさんが入ってきた。「こんばんは」と、挨拶をすると彼は、
「今日は、早いじゃ。もう終わりかね?」
「うん、いや、女の子がウンコ漏らしちゃって」
「えーっ、ウンコぉ?」
「そう、でも判んないよ、プールの中でしちゃったのか、外でしちゃったのかは判らないよ」
「どこでだよ、ちょっと教えてよ」
 プールは水だから、場所なんか関係ないのにと思いつつも、ま、靴下もまだ履いてないことだし、と彼を伴ってプールに行ってみた。
 あの辺だよ、と指をさしつつその方向を見ると、
 あっ!
 あの親子が何事もなかったかのように笑い声をたて、楽しそうに四人で遊んでるじゃないか。うーむ、強者たちなのである。

 再びロッカールームに戻ると私は靴下を履いた。わたしに続いたおじさんは悩み出す。
「どうしようかなぁ、どうせ、プールに入る人の身体がきれいだなんて保証はどこにもないしなぁ。どうするかなぁ」と一人でぶつぶつ言い出した。お悩みモードに入っちゃったようで、ローカーの前を行ったり来たりしている。
 私は一刻も早く帰りたっかたので、荷物を掴んで、
「じゃぁ、私はこれで帰ります。お先に」

 数日後、プールに行くと、受付でスタッフが、
「あのあと大変だったんですよォ」
「どうしたの?」
「次の日、プールの掃除をしてたら、隅のほうにウンコが転がってて参りましたヨォ」
 あの女の子は水着をずらしてやったんだろうか。それとも出てきたものを捨てたんだろうか。どっちだろう、スタッフの言葉を聞いて最初に私の頭に浮かんだのはそんな疑問だった。あの子がプールサイドで騒ぎだしたのは、その行為のあとだったんだ・・・・。

 その後、この一家の姿を見かけることはなくなった。



 ところが、それから数ヵ月後、更なるウンコ事件が待ち受けているとは、この時の私は知る由もなかったのだが、ま、それはいずれまた。

 TOPへ


9.F 市の交差点

 何の用事があったのかすっかり忘れてしまったが、私は静岡県中部のF市にいた。(そりゃ、富士市じゃん!とツッコム)
 帰り道、不案内な街で道を間違え、左折すべき道をそのまま通り過ぎてしまったのだった。
 あー、行き過ぎた、さっきの道だ。ヤレヤレ。
 私は、しばらく行った道幅の広い場所でUターンをし、先ほどの道を曲がろうとその交差点まで戻ったが、あいにくと信号は赤になっていたので、右折レーンに入り、ウィンカーを出して、青になるのを待っていた。(順番が違うゾ、ウィンカーが先じゃないのか、と天の声)

 すると、背後から救急車のサイレンが聞こえてきた。
 その音は次第に大きくなり、左隣の直進レーンを進んできて、私の横に停まった。信号は赤なのでいくら緊急車両とはいえ、一時停止の義務がある。真横で鳴る救急車のサイレンはとても大きな音だ。
 すぐ発進するだろうと思ったが、何台もの車が交差点を横切っていくので、救急車はなかなか発進できないでいる。もちろんその間、私の鼓膜は激しく揺さぶられているわけだ。

 ひょえ〜、こいつら停まんねえのかよ、と驚いていると、完全に停止した救急車の前を、またもや一台の車が横切っていった。若者が運転するスポーティカー。
 その車が通過するとようやく救急車は動き出したのだが、すぐにボディが前に沈んだ。強くブレーキを踏んだのだ。と、一台の車が通過していった。中年のオッサンが運転するセダンだった。(オヤジィ、停まれよ!)
 再び救急車が動き出す。と、またもやボディが前に沈む。今度は二台の車が、救急車の前を横切っていった。
 なんなんだよ、この街は。(でもこの街の人とは限らないわな)
 救急車が動き出す。今度こそ、と思ったらまたもやブレーキランプが赤くともる。一台の車が交差点を横切っていく。
 オイオイ。
 まるで関係のない私でも、なんだかハラハラしてしまう。そしてこの車が通りすぎると、ようやく救急車は交差点を通過することができたのだった。
そのあとこちらの信号が青になるまで、目の前を通っていった車は一台もなかった。
(つまりサイレンの音を聞いて止まった車は一台もなかったてことだ)

 何台もの車がサイレンを鳴らしている救急車の前を横切っていった。若者もいた、オヤジもいた。見つけにくかったのなら仕方ないが、片側二車線の直線道路の交差点で、救急車は半分以上、車体が出ていたのに、だ。
 ブレーキを踏むだけのことだろうと思うのだが、それさえ出来ないのか?それとも、何かのっぴきならない事情でもあったんだろうか。(たとえばスピードを緩めると仕掛けられた爆弾が爆発してしまうとか)
 きっとそうだ、そうに違いない。でなければ救急車の通行の邪魔をするなんてありえないものな。
 交差点を右折しながらそんなことを考えていた。
というのはもちろん嘘でほんとうは、バカばっかりだな、と思ったのだった

 TOPへ


10.スイミングクラブ事件2

 先のウン○事件の記憶が消えかけた数ヵ月後、私は新たなウ○コ事件に遭遇することになったのだが、しかしそれは先の事件より更におぞましい事件だったのだ。

 その夜、いつものように私はスイミングクラブに出かけた。
 受付けを済ませると階段を降り、ロッカールームのドアを開けてなかに入っていった。ドアはここに一つあるだけで、正面から右手にかけてロッカーが五、六列並び、左手にはパーティションで仕切られた洗面所、更にその左隣にシャワールームがある。シャワールームの入口はビニールのカーテンが下がっているのだが大抵は開きっぱなしになっていた。そしてシャワールームの一番奥にはサウナがある。

 ロッカールームには誰もおらず、極太のブラシのような床の一部が濡れ、靴下を濡らしたことも決して珍しいことではなく、これから私がであう出来事を予感させるほどのことは何もなかった。ただ、静かなだけだった。
 金属製のロッカーの扉を開けて、私は着替えを始めた。そして着替えを終えて扉を閉めたときに、それは嫌な音を立てた。私は、すぐにはプールに向かわず、いったん洗面所に寄って、水道の栓をひねった。音をたてて流れ落ちる水にゴーグルを浸し、ついでにシリコン製のスイミングキャップもたっぷり濡らしてから、水道を止めた。水の流れる音が止むと辺りは再び静かになった。

 プールに行ってみてもやはり誰もおらず、私は嵌めこみのガラス窓越しにスタッフに挨拶してから早速、泳ぎ始めた。貸しきり状態なので気兼ねなく泳ぐことができるのだが、気分爽快というよりむしろ寂しい感じがして、自分の中のヤル気が水に溶け出していくようだった。ひと休みするたびに誰か来ないかな、とあたりを見回してみるのだが、やはり誰もいない。
 一時間ほど泳いで、私は上がることにした。スタッフルームはもぬけの殻で、蛍光灯の灯りだけが妙に白々とそこにおかれている机を照らしている。全身に軽い疲労感を感じながら、ロッカールームに戻った。
 ロッカールームは相変わらず静かで、自分が立てる音以外は何も聞こえては来ない。私は水着を脱ぎ、腰にバスタオルを巻いてから水着やスイミングキャップを洗うために洗面所の入口に立った。

 その時、おやっと思った。洗面所の左側に鏡と洗面台が奥に向かって伸びているのだが、その洗面台の中央あたりに水着が丸められて置かれているようなのだ。不思議な感じがした。さっきといい今といい、私がここに来たときには誰もいなかった筈だ。ロッカールームにも洗面所にもプールにも誰もいなかった。それなのに水着が置いてあるということは・・・。ひょっとしたらシャワールームに誰かいたのかな、と思いながらも大して気にもせず、私は歩を進めた。
 あれ?この水着は・・・。
 たしかに見覚えがあった。直接、話をしたことはないのだけれど以前、スタッフからその人のことを聞いたことがある。なんでも若い頃、格闘技をやっていたとかで五十代にしてはかなり筋肉質な身体をしているお医者さん、彼のものじゃないか?その人のことは何度も見かけたことがあり、その度にいつも同じ水着を穿いていた。他の人が同じ柄の水着を穿いていたことはないから、おそらくあの人のものだ。

 洗面台の窪みが少しずつ見えてきた。徐々に底の方が見えてきて、やがて半球形に抉られた形を露にした。そして3つある窪みの真中の窪みの底が見えたとき、私は思わずアッと声をあげてしまったのだった。
 なんと、そこには茶色の棒状のものが十cmほどの長さで横たわっていたのである。

 えっ、なに?なんでこんな物がこんな所にあるんだ。
 ありえないものがそこにある奇妙さ、違和感。洗面所にこの物体は似合わない。流し忘れのトイレに入った時には汚らしさが先に立つが、今はそれよりも奇妙な感じの方が強い。一体なぜ・・・。この状況をどう理解すればいいのだろうか。
 幸いにして臭いは感じない。プールのカルキで鼻が麻痺してるのかもしれないが、それは幸運なことに違いなかった。

 私はスタッフ以外の人間とは誰とも会っていないし、シャワーの音だって聞いていない。とすると彼は何処にいたのか・・・サウナか、そうだ、サウナだ、そこにいたに違いない。だが、それはいい。
 次だ。
 ここに転がっている物体は、棒状の形態を保っている。どういうことだ。もしも、だ。もしも、水泳パンツを穿いたままやらかしてしまったのならこの形態を保てるだろうか。水着はかなりタイトだ。水着をつけたままやらかした場合、この形態を保つのはまず無理だろう。ましてや脱いであるのだ。水着を脱ぐときに必ずこの形態は崩れてしまうに違いない。それなのにこの葉巻型UFOのような物体はなぜこの形を保っているのだろうか。考えられることは一つだ。しかし、しかしそれはあり得ない。考えたくない。だがそれしか答えが浮かばない。

 だが待てよ、この水着と葉巻型UFOを直接結びつける証拠は何もないゾ、と理性は囁く。が、私の直感(あるいは感情)は既に両者を結び付けてしまっていて、もはや分離は不可能となっていた。医者はストレスが溜まるので変わった人が多いとも聞いたことがあるしなぁ・・・。

 更に驚くべきことに、この葉巻型UFOは凹みの中央部、排水溝のあたりに横たわっているのである。もし洗面台の端に腰かけてしでかしたとしたら中央部ではなく、半球形の斜面に引っかかるはずである。もしくは先端が排水溝にかかる程度であろう。それなのに今私が見ている葉巻型UFOはその中央部あたりに排水溝が位置しているのだ。てことは・・・。
 いや、考えたくない。考えたくないゾ。私は自分の水着を洗うのを中止し、ロッカーにしまった。そして速い足取りでシャワールームに行くと栓を捻った。暖かいシャワーを浴びながら、無心になろうとした。しかし何も考えまいとしても、どうしてもある映像が頭の中に浮かんでしまうのである。いや、考えまい。考えるな!
 だが、すでに活性化してしまった私の右脳は、勝手に映像を流しだすのだった。いかん、止めろ。止めてくれぇ〜、と右脳にお願いしても彼はそれを無視して映像を流しだす。

 五十代の男、それもかなり筋肉質。職業、医者。誰もいない洗面所で、彼はサウナでかいた汗を滴らせながら水泳パンツを脱ぎ、素っ裸になるとおもむろに洗面台の中央に乗っかる。そして鏡に背を向けてしゃがみ込み、排水溝にねらいを定め、フン!
 望みを果たした彼は、洗面台からゆっくり降りて葉巻型UFOをしげしげと眺め、満足そうに頷くとシャワールーム消える。。
 おぞましい光景だ、こんなおぞましい光景が、私がプールにいたあいだに展開されていたのか。あああ、美しくないゾ。いやだゾ。身の毛もよだつゾ。

 私はシャワーを終え、洗面所を見ないようにしてロッカールームに行くと洋服に着替えた。階段を上り、受付で、○ンコが洗面台に転がってるよ、と言うと彼は「はぁ〜?・・・ウ○コ、ですかぁ・・・」と情けない声を出し、困惑した顔で私を見た。そんな顔されたって、わたしゃ、知りません。
 私は、彼に背を向けると、そそくさとそこを出た。

 帰りの車を運転中に、ふと疑問が浮かんできた。彼は何故、証拠を残していったのだろうか。それが判らない。長年の思いを成し遂げることができて満足したためつい、嬉しさの余り忘れてしまったのか。それとも何か、慌てて出て行かねばならぬ状況が起きたのだろうか。
 よく判らん。
 だがそんなことは大したことではない。そんなことよりも何故、私がこんな目に遭わねばならないのか、ということだ。しかもこれで二回目だぞ。いい加減にせぇよぉー。
 私は心底、思った。
 「もう、嫌だ。絶対、よそに行く!」

 TOPへ